古墳の上に立つ? 『御所神社』
- 2012/09/10
- 17:36
いつもにぎわう 天然温泉『御所の郷』 の角を西へ100mほどのところに 「医王山神宮寺」 さんがあります。
高野山真言宗で、山号の通り薬師如来がご本尊。阿波北嶺薬師霊場の一番であることから歴史のあるお寺なのでしょう。
樹齢70年という牡丹が大輪の花を咲かせることで知られています。地元では三木武夫元総理の菩提寺としても有名です。
そのすぐ西側の小高い丘の上にあるのが 「御所神社」 。
元は 「吹越神社」 と呼ばれ、土御門上皇、天照皇大神、菅原道実など18柱を祀る(県観光協会)そうです。
なぜそんなに多いかというと、大正2年に村内28社を合祀したのだそうです(『土成町の史跡・伝説』 )。
今でも神社が多いと思うのに、なんという数!
日本全国、そうだったのでしょうか…?
(息子が中学時代に野球部のトレーニングでお世話になったとのこと。)
この設計は板野町の 「岡上神社」 に似ている気がします。
ムリ!
そういう方は、北側、背後を走る農道に車を停めて、この鳥居をくぐれば楽にお詣りできますのでご安心ください。
P.S. (12.11.21)
「ののちゃんブログ」 に、戦前にここでおこなわれたご神事の記録 『土御門上皇・清和天皇 祭典史』 が紹介されています。
昭和6年12月18日に「御所神社」にて土御門上皇七百年祭、20日に「秋月城址神刀六合館武道場」にて清和天皇一千五十年祭。
ともに阿波国守護・小笠原長清の末裔である森本義男氏が祭主をつとめておこなわれています。
玉串奉奠の名簿には市場警察署長、土成村長、土成郵便局長、土成家政女学校長、土成青年訓練所主事、美馬医院長・陸軍予備三等軍医、武徳会阿波支所代表、土成村農会長、帝国在郷軍人会土成村分会長、土成村青年会長などなど、村を挙げての一大事だったことが伝わります。
清和天皇の鎮座祭で 従五位下 摂津守 橘朝臣 清久之 という神主のお名前が、地元の日吉神明神社の社掌と並んでいます。
派遣されてきたのでしょうか。
一、皇陵遥拝 というところでは (一堂起立最敬礼祭主遥拝詞)
情景が目に浮かびます。
この『土御門上皇・清和天皇 祭典史』が宮内庁を通じて昭和天皇に献上された旨、通知されています。
通知の日付は昭和25年7月8日。
昭和20年の終戦から復興のさなかで、まだGHQの監視下にあった時代。
天皇陛下はどのような思いでこの記録に目を通されたのでしょう。
清和天皇の子孫が臣籍降下した源氏が武断政治の中心となってゆき、(土御門帝ほか多くの皇族を排除されたりした)結果として、日本史上最悪の“敗戦”につながったと言える(かもしれない)のですから。
P.S.以上
***
この丘そのものが昭和の終わりの背後の農道(県道139)工事で全長75mの “後方前方墳” だとわかったのだそうです。
「椎ケ丸古墳」 と名付けられ石碑が建てられましたが、その後の調査はされていないようです。
徳島県はとにかく古墳だらけなので、調査予算もない地方自治体ではたいてい“埋め戻し”ということになってしまいます。
Wikipediaによれば、主に弥生時代後期末から前方後方墳のもとの前方後方形墳丘墓が造られ、古墳時代前期前半に中部から関東地方で前方後方墳がよく造られたのだそうです。
西日本に前方後円墳が多いのに対して東日本は“前方後方墳の世界だった”といえるのだとか。大型のものが下野に2基、上野・越中・美濃・駿河にも1基ずつ。
一説に西日本は前方後円墳の邪馬台国を中心とした政治連合で、東日本は濃尾平野の前方後方墳の狗奴国を中心にした政治連合だったという説があります。
いやいや、それでも100メートルを超える大きな前方後方墳5基が大和(奈良)にあり、少し小型のものが出雲(島根県松江周辺)に集中して32基もある、ということは、どのような意味をもつのでしょうか…。
ともあれ、土御門上皇を合祀するようになって 『御所神社』 と呼ぶようになったのは後世のことのようです。
P.S. (2012.12.27)
椎ケ丸古墳について、土成町郷土歴史館発行の 「土成町の史跡・伝説」 で詳しく紹介されていました:
吉田字椎ケ丸の標高90mの段丘南端部に位置した 県内最大の旧石器散布地 で4か所の地点から形成されている。
約70点のナイフ型石器(サヌカイト製)の他、船底形石器・楔形石器など、現在まで1,000点以上の石器が採集されている。発掘調査による出土資料が少ないため、不明な点も多い。
石器が1,000点出ても、計画的に発掘したり出土品を分析していないのでしょうね。
どうせ徳島からたいしたものは出ないと思い込んでおられるのかな。
まあ、今はまだそっとしておいてもらったほうがいいでしょう。
旧石器の研究は相当難しいのでしょうね。
Wikipedia で日本の旧石器の項をみると:
日本は酸性の土壌が多いため、骨などが残りにくく前中期の遺跡は発見が難しい。
しかし、数は少ないものの、近年の考古学研究の発展により、金取遺跡(岩手県遠野市;9~8万年前)から中期旧石器が、砂原遺跡(島根県出雲市;約12万年前)では前期旧石器などの遺物が発見されている。
日本列島の後期旧石器時代は、約35,000年前に始まり、縄文時代へと移行する約15,000年前までの約20,000年間続いた。
2万年間!ですから。
このころは氷河期で、海水面が下がって瀬戸内海は陸地だったといわれるようです。
いったいどんな人たちが、どんなふうに暮らしていたのでしょう・・・。
約2万年前の氷河期最後の更新世後期の日本の高度地図
***
ここからは 眉山 から 高越山 までがよく見渡せて、爽快です。
下は眉山方面の景色。堤防で見えませんが、昔は 吉野川 を行き来する船も見渡せたのではないかと想像します。
手前は徳島自動車道。私が大阪に通うのにお世話になっている高速バスが土成ICそばの停留所に止まっています。
△
- 関連記事
-
- 土御門上皇のプロフィール
- 古墳の上に立つ? 『御所神社』
- 土成の由来