10月6日から 市場町の 「やねこじき」

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土成町の西隣りに合併前は阿波郡だった 市場町 があります。
この町の秋イチバンの行事が蜂須賀の殿様にゆかりがあるという 「やねこじき」
 

 
“町筋”という商店街を中心に、それぞれの軒先などに手作りのフィギュアを並べたものです。
今年でなんと 第408回 を迎えるという伝統行事なのだそうです。
 
「四国観光検定」公式サイトによれば:
概要/400年続く無形文化財で、旧市場町内を大名行列仕立てで巡業する祭り。時代衣装に仮装して商店街を行列し、寸劇や毛槍の演技、時代劇芝居などを行う。
江戸時代、阿波国内を巡回した蜂須賀家政が現在の旧市場町に来た際、村人たちがイモやつる、藁等でさまざまな物を作り、屋根の上に飾って歓迎の意を表した。
それを見た家政が「あれは何か」と尋ねたところ、説明にあたった庄屋が「まことにやねこい(粗末な、頼りない)ものですが」と言ったのを、「やねこじきと申すものか」と聞き間違えたのがその由来。
毎年体育の日を最終日に、全3日間行われている。
 
時代衣装の行列を主に、毎年、芸能人や忍者パフォーマンスなどのゲストを呼ぶ、なかなかのものです。
 
20年ほど前から度々拝見していますが、大型スーパーに押されてとうに“シャッター通り”となっている上に高齢化が進んで、展示作品も少なくなり、一時はずいぶん元気がなくなったように思いました。
が、この頃は子供たちによる力作が増え、けっこう見応えがあります。
(ので、抽選会がメインイベントにならないことを願うばかり。)
 
おととし2010年の写真から、いくつかご覧ください。
 

 
こういう感じが“正統派”の作品、かな。
人気のアニメが多いです。
場所は健闘している地元スーパーの 『竹虎』 さん。
 

このあたりの旧市場村は明治には 市香村 といい、すぐ南側が 香美(かがみ)地区、北には尾開(おばり)地区があります。
ともに古代史で重要なポイントのひとつのようです。が、それは余談。
 

 
背景なんか、いいセンスです。
 
コンテスト形式でいろいろな賞が贈られます。
時事問題がよく扱われていて、この年の大きな話題の“地デジ化”と人気の“龍馬伝”なんかを組み合わせたこの作品が市長賞を受賞されています。 
 

 
細部にもこだわっています。

虫かごの中をのぞいてみると… 
このシュールな感じがなかなかイケています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これもまあ、立派な作品といえるかな。
巨大なかぼちゃです(乗っているのがふつうサイズ)。 
 

 

 
近くの老人ホームの皆さんには、楽しみの遠足でしょう。
 
お孫さんの作品があったりしたら嬉しいでしょうね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昨2011年の時代行列です。
 

 
誘導の(商工会議所の?)方の背中には“商売繁盛”。
がんばろう、町筋商店街!
 

 
はて蜂須賀の殿様を歩かせている駕籠の主は…。
 
まあ、いいでしょう。
ばんざ~い!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
道中の見せ場が毛槍の交換。相手に投げ渡します。
毛槍は藩ごとに意匠が決まっていて、大名行列の旗印の役割をしました。他藩の行列とすれ違う時には格下の藩が道を譲ることになっていたそうです。
このムーミン(古い?)のニョロニョロが集まったような毛槍は阿波藩のものなのでしょうか。
 

 
けっこう難しそうです。
時々危ない場面も…。
 

 
女性の皆さん、お似合いです。
阿波市の女性には土御門帝とともに移ってきた都人のDNAが濃いのかもしれないと思う一枚です。
 
 
すえドン先輩が 2006年10月の 第402回 「やねこじき」 の様子を紹介されていました。
http://sueyasumas.exblog.jp/3966025/
ゲストは内田裕也さん。
似合っている。殿様の生まれ変わりなんだと思えば、昨今のご活躍も分かるような気がします。
ただ、この年以降に記事がない…。先輩、ぜひまたおいでください。
今年は大道芸、だそうです。
 
 
他の記事でも書いたかもしれませんが、この 蜂須賀家政 は、秀吉の家来だった 蜂須賀小六(ころく)こと正勝の長男。
この機会に蜂須賀正勝のことを復習しておきます。
秀吉出世譚のひとつ、“一夜城”の頃から:
 
永禄9(1566)年、美濃国において秀吉の手で果たされた墨俣城の築城に川並衆の前野長康らと協力し(「墨俣一夜城」の逸話も後世の創作である可能性が高い)、秀吉がその守備頭となった際には与力としてともに行動し、斎藤氏方を調略する案内役として活動していた。
その後は、越前天筒山城・金ヶ崎城攻め、近江横山城の攻略、および、長島一向一揆攻めで、秀吉に従軍して功をあげ、天正元(1573)年、浅井氏の滅亡後に秀吉が近江長浜城主(当初は小谷城主)となると、長浜領内に所領を与えられた。
天正5(1577)年から始まった中国攻めにも従軍し、天正7(1579)年の播磨三木城攻め(三木合戦)、天正9(1581)年の因幡鳥取城攻めにも従軍して活躍し、その功によって播磨龍野5万3千石を与えられた。
天正10(1582)年、本能寺の変の際には備中高松城攻略の最中で、黒田孝高と共に高松城開城に尽力し、いわゆる中国大返しを成功に導いた。
天正12(1584)年の徳川家康との小牧・長久手の戦いにも従軍する。
天正13(1585)年、朝廷より従四位下の官位を賜り、修理大夫に叙任される。同年の 四国攻め では阿波木津城を降し、四国取次として戦役前後の交渉や領土引き渡しなどの処理にあたった。
長宗我部元親 への押さえとして秀吉から阿波一国を与えられるが、正勝は秀吉の側近として仕えることを望んでこれを辞退し、嫡男の家政に譲り渡された。自身は結局、阿波に入国することはなかったといわれる。
Wikipedia
秀吉の傍にぴったり寄り添っていたのですね。
関ヶ原以降の蜂須賀家のことは阿波藩祖、息子の家政の項から:
 
慶長3(1598)年に秀吉が死去し、慶長4(1599)年に前田利家が死去すると、福島正則や加藤清正、浅野幸長らとともに三成を襲撃しようと蜂起したり(資料によっては、この襲撃に家政は参加していないとするものもある)、子の至鎮と徳川家康の養女の縁組を結ぶなど、典型的な武断派・親家康大名 として活動している。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは、西軍から親徳川の姿勢を糾弾され高野山へ追放されたが、家康の上杉景勝征伐に同行させていた至鎮は関ヶ原の本戦で東軍として参加して武功を挙げたため、戦後に家康から所領を安堵された。しかし自身は家督を至鎮に譲り、蓬庵と号して隠居した。

慶長19年(1614年)から始まった大坂の陣では、豊臣方からの誘いに「自分は無二の関東方」と称して与力を拒絶するとともに、駿府城の家康を訪ねて密書を提出している。
冬・夏の陣で嫡男の至鎮が戦功を挙げたため、戦後に蜂須賀家は淡路一国を与えられ、25万7,000石に加増された。
 
元和6(1620)年に至鎮が夭折した後は、幼くして襲封した嫡孫・忠英の後見を幕府から命じられ、忠英が成人する寛永6(1629)年まで政務を取り仕切り、藩政の基礎を築いた。
 
戦国以来の長老として、第3代将軍・徳川家光の側に御伽衆として出仕することもあったという。寛永15(1638)年12月30日に81歳で死去。
 
歴代、蜂須賀藩主は、代々釣り好きで専用の釣り場を維持し案内人も数名召し抱え、四季の釣りを楽しんだと言われている 現在のふかせ釣りの元祖と云われている
 
したたかに時代の変わり目を泳ぎ切った一族なのですね。
阿波踊りも、この家政の時代に始まったとされています。人心の掌握にも長け、隣の土佐で幕末まで“土着勢力”との間に火種を抱え続けた山内家と好対照をなしているのではないでしょうか。
Wikipedia にある 伊達政宗に「阿波の古狸(ふるだぬき)」と評された という記事もうなづけます。
 
ただ、この蜂須賀家が阿波古代史に及ぼした影響について、(多くの古墳を破壊した、などという)歓迎できない話も聞きます。
そのあたりのことは今後も調べてゆきたいと思います。
 
 
P.S.
おもしろいアルバムを発見。
主催の阿波市商工会のサイトに、昭和36年以降の入賞作の写真がアップされています。
時代を反映した、日本史の貴重な資料だといえるでしょう。
http://www.tsci.or.jp/awa/yanekojiki06.htm
力作も終わると崩されるようなので、写真が残っていてよかった!
 
一点だけ転載させてください。
昭和36年、第6席という作品 「夢の懸橋」 はマルセ本店さん。
 

 
その夢、かないましたよ~!!
あっぱれ、やねこじき!
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